永きにわたり拓殖大学発展の為に尽力なされた朋友、藤渡辰信さんが九月二十六日に永眠なされました。
ご生前のお姿を追想し「お別れの会」にて詠んだ惜別の辞です。
前拓殖大学総長・理事長 藤渡辰信君への惜別の辞
「君は川流を汲め、我は薪を拾わん」
藤渡さん、貴方のことを想うと幕末の儒学者であり教育者でもあった広瀬淡窓の漢詩の一節が思い出されます。広瀬淡窓は大分県日田に咸宜園という私塾を開いていました。
この私塾は貴方が学生時代にたびたび訪ねてくれた私の故郷・筑豊との県境であります。この咸宜園は吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾と並び、当時有為の青年が学ぶ、熱気あふれる有名な三大私塾の一つに数えられていました。
淡窓は異郷にあって学問修行に励む塾生に対し厳しい修行だからこそ、真の友人ができるのですと、この漢詩によって教えていたのです。
いうをやめよ 他郷苦辛多しと
同袍友有り 自ら相親しむ
柴扉暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流を汲め 我は薪を拾わん
この漢詩に親しむと拓大に学んだ頃の貴方と私の友情の姿が重なってきます。
「藤渡斃れる」との一報を受け私は身体が震えました。
「本当か!」と何度も聞き直しました。
かけがえのない人を失った哀しみが全身を貫き身体から力が抜けてゆくのがわかりました。
「何故、俺より早く逝ったのか。ばか野郎!」
私は心の中でそう叫びながら、貴方の自宅へ駆けつけました。貴方は安らかな表情で棺を蓋い眠っていました。「おい、藤渡!」と声をかければ、今にも立ち上がってくるような錯覚にとらわれました。
秋雨や棺に向いバカ野郎
秋の虹あたかも君のあるごとし
帰る道すがら、この句が浮かび、思い出が鮮明に次から次へと 蘇ってきました。
貴方と初めて出会ったのは今を遡ること、六十有余年我が国は大東亜戦争に敗れ、未だ独立を回復するに到らず、国民は占領下にあって、呻吟していた昭和二十七年のことでした。田園はまさに荒れ放題、社会は混乱を極め、人心は荒み、思想は乱れていました。
貴方は青雲の志を抱き、九州・長崎の地から、私は新天地を求め、北九州から、ここ茗荷谷の地に馳せ参じ我らは邂逅したのです。
貴方の出立ちは、吉川英治の「宮本武蔵」を髣髴させる弊衣蓬髪、絣の袷に長靴で、異彩を放っていました。
当時、私たちは茗荷谷の学舎を臥龍窟、校庭を五丈原と呼んでいました。戦前、海外に雄飛した数多くの先輩たちが「三国志」になぞらえて名付けたと聞きました。
私たちは風に嘯く摩天林の下、雲に雄叫ぶ麗澤湖の畔で、満洲国建設に殉じた脇光三先輩らの活躍を誇りとし、若き血を燃やしたものでした。
貴方は空手部に籍を置き、私は応援団に所属し目指すところは違っていましたが、与謝野鉄幹を朗詠し、蒙古放浪歌や昭和維新の歌を、肩を組んで高歌放吟しました。
学生時代、貴方と青春を謳歌したことが、あたかも走馬灯のように今、私の脳裏を駈け廻っています。
国の将来を、人生如何に生くべきかを、夜を徹して語り合った若きあの頃、我らの意気は将に天を衝く勢いでした。
貴方と起居を共にした東京学生会館は、靖国神社前の田安門から皇居内に入り、千鳥ヶ淵を望む、かつて近衛師団のあった場所にありました。都下に居住する地方の貧乏学生一千人余が相集い、学生会館はあたかも梁山泊の様相を呈していました。
春になれば田安門の桜吹雪、厳冬には寒風にさらされ、時には雨に打たれ、貴方と共に過ごした、ほろ苦い思い出が脳裏を駈け廻ります。
学生たちの思想・心情は異なり、時に激しい対立もありましたが、学生たちは誇り高い自治の精神で己を律していました。
時に、恩師や先輩の門戸を叩き、教えを乞い、時に、高尾山や長瀞へ徹夜行脚を敢行し、紅陵祭にはファイヤストームを囲んで「キットカチマス、カタセマス」を乱舞しました。
喜びや悲しみ、悩みがある時はいつも互いを誘い合い、皇居のお濠を逍遥したことが懐かしく思い出されます。
貴方は吉川英治の「宮本武蔵」や、中里介山の「大菩薩峠」を愛読し、これぞと思った男には「宮本武蔵を読みなさい」とすすめていましたね。
貴方が好み、よく口にしていた幕末の剣豪・島田虎之助の言葉が、私の胸に刻み込まれています。
「剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず」
爾来、今日に至るも、私はこの言葉を座右の銘としています。物事を決断し、実行する時、私はいつもこの言葉を想い起し、不退転の覚悟を固めたことが何度かありました。
「為せば成る」
「逆風の中に孤立しても、正義を唱える、これぞ男子の本懐ぞ」
私をひきつける魅力ある言葉でした。
ここ茗荷谷で貴方に会い、共に過ごした時間は我が人生にとって、正に珠玉のような時間でした。
「良き友と縁を得たり。君ありてこそ、我あり」
今しみじみ、そう思います。
その貴方は母校拓大大学院を卒業後、自らの政治哲学の実現を期して、結党直後の民社党を訪ね、春日一幸氏の門を叩き、民社党政策審議会に身を投じ、爾来十年余、政策実現の為に尽力されました。
縁あって、貴方が母校拓殖大学に迎えられた頃、我が国の教育の荒廃はまさに極まったの感がありました。
物質優位の世相は人心を倦ませ、人は奢り、世は混濁泥水の如き有様でした。物質中心の現文明が人心を蝕み、徳は地に堕ちてしまっていました。
こうした中にあって、母校拓大に職を得た貴方はまさに「教育こそ天職」「国家百年の大計は教育にあり」と、水を得た魚の如く大学教育に力を尽されました。
教育について語る貴方の顔が誇りに満ちていたことを想い出します。
貴方は平成十三年、拓殖大学第十七代総長に就任されて以来、母校の創立者である桂太郎侯の建学の精神の昂揚に全力を尽しました。
即ち、進取の精神と世界をのみ込むほどの気概、地球上のあらゆる民族から敬愛される教養と品格、海外雄飛を志す灼熱の如き情熱を 有する人材の育成に渾身の力を尽してこられました。
かつて学監・新渡戸稲造先生は「地の塩となれ」と説かれました。
また、元総長・矢部貞治先生は「凡夫のなかにこそ人情味溢れる本物の人間あり」と説かれました。
そして、第十七代総長に就任した貴方は「拓大の建学の理念は、進取の精神・開拓の心にあり」と。
まさに、予測不可能な未来を切り開くことこそが建学の理念であると。
拓大生は、貴方や偉大なる先達たちの理想に賭ける情熱を一身に受け、そして導かれて希望と勇気に満ちた学生生活を過ごすことが出来たと確信します。
「命もいらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は為し得られぬなり」
この言葉は西郷南洲翁の遺訓であります。
南洲翁のこの心こそ、母校拓殖大学の心意気でなくてはならぬ、と覚悟しております。
我々の学生時代の理事長は南洲翁のご令孫であり、直々に御薫陶を受けた二十七期の先輩、西郷隆秀先生であり、矢部総長と相協力され大学運営にその実を発揮されました。
また貴方は米沢藩を窮地から救い、江戸時代屈指の名君と呼ばれた上杉鷹山を尊敬しておられました。
上杉鷹山は七十歳以上の者を心から労り、九十歳以上の者には格別の心遣いをする「敬老の精神」を教えました。貴方はこれぞ日本の目指す美しい心であると力説していました。
いまや世界共通の悩みである高齢化社会を見通す先見の明を持っておられました。
四年前、天皇陛下から旭日中綬章を賜る栄誉に浴されました。私には胸一斗の深甚なる感慨でありました。
「貴方が教育者として、そして、拓大総長として、叙勲を賜る栄に浴したことを泉下の御父上はお喜びくださっていることでしょう」と、そんなことを話し合ったのも、今から僅か四年前のことでした。
残念でなりません。
悔しくてなりません。
悲しくてなりません。
貴方は爭いを好まず、無我の人でした。
清廉にして謙遜、損得の打算なく、足るを知る人でした。
一点一画、粗末にすることなく、真っ直ぐに生きる人でした。
重厚にして、寡黙豪胆な人でした。先見性のある人でした。
弱き者たちへの優しさを持ちあわせた人でした。
世渡りは、愚直にして下手であり、只管努力の人でした。
押忍の気魄に満ちた、燻し銀の光を放つ人でした。
度量の深い人でした。
藤渡君、貴方との永久の惜別に当り、もう少し気の利いた言葉を言いたかったのですが、これ以上に言葉を知りません。
最後に貴方を称え、久遠のいのちの詩を捧げます。
是の身は無常なり
堅固なりと見ゆれども
必ずや当に死すべき時臨らん
泡の如く 霓の如く
幻の如く 響きの如く
過ぎ去るものは実在に非ず
不壊なるものこそ応に「我」なり
死せざるものこそ応に「我」なり
儘十方に満つるものこそ応に「我」なり
合掌
平成二十八年十一月十二日