●現実と空想、行動と思索、生命と観念の分岐点でたじろいでいる日本人
現状打破、改革一新という刺激的な思考が、日本人全体の心の深部に行き渡っている。
平和に対する倦怠、滅亡に対する不安という社会的気分が混沌と閉塞感をつくりだし、人々は、そこで、殊更に過激な表現をもとめ、激情的なことばに酔いしれようとする。
既成のものを否定して、新しいものを肯定するのは、憂さ晴らしという感情作用の一つで、政治の世界において、それが、かつての小泉改革や民主党ブーム、いまでは既成政党の否定という形で出現した。
小沢も、政治の閉塞感を背景に、毀しては造り、毀しては造ってきたが、美しいもの、役に立つものは、何一つつくりだすことができなかった。
新しいものは、かならず古くなって、やがて、人々の好みに合わなくなる。
激情的破壊は、いつの世も、いっときの慰め物で、空中の楼閣にすぎないのだ。
維新の会の橋下のモノに憑かれたような主張、狂気じみた過激さは、変化をもとめる時代の空気からひきだされた外道で、人々は、劇場の観客席から、やんやの喝采を送っている。
だが、われわれが生きている生命世界は、紛れなき現実であって、外道の見世物ではない。
石原の思想や言動もかたくなで、偏り過ぎている。
芸術や演劇は、退屈や政治的な閉塞感から、人々を救い出すことはできても、国家を救出する指導原理にはなりえない。
だが、人々は、声高に叫ばれるもの、新奇なものばかりをもとめ、かれらの耳目を引く刺激な言動が、投じた石の波紋が広がってゆくように、時代という水面のどこまでも、広く浸透してゆく。
水面を漂う者は、だれも、この波動から逃れることはできない。
この衝撃波を乗り切るか押し流されるか、それとも、沈んでしまうか。
西欧では、純粋な学問、哲理学でも、実際的な考え方から離れることがなく、哲理学者も、多くが、数学者や科学者であり、現実主義者であった。
東洋ではちがう。
東洋の哲理学は、瞑想と思索から生まれ、現実とは無縁なところで発達した。
いまでも、日本人の思考や行動を支えているのは、現実ではなく、観念だ。
生命世界は、地に足がついているが、観念世界では、足が空につけられる。
そこでは、理性より感情が優先される。
観念は、哲理ではなく、感情を源流とする感性、心のはたらきだからである。
生命には、情緒と生きるための合理的判断が宿る。
だが、感情と空想からできあがっている観念は、生の原則から外れる。
生命世界から切り離された観念世界では、理性的に当否を疑ってみるという思考もはたらかない。
物事を好悪で判断し、鵜呑みにして、虚栄や嫉妬、不安に悩まされる。
観念の衝撃波に弄ばれているのだ。
生命世界にあるのは、生きのびるという生の原則だけである。
生きることは、観念の世界に遊ぶことではなく、現実世界を功利的に生きつつ、自他の幸を図ることで、それが、生命哲学における善であり、正である。
面子や外聞にとらわれず、生きのびる事を考え、生きのびて仕事をつづけることが、唯一の真理で、生の 世界においては、無益なものは、すべて、虚偽なのだ。
自己の考えに固執して、勇ましく死ぬ事より、屈辱を忍んで生きのびることのほうがむずかしいのは、困難は、死ではなく、生にあたえられた重荷だからである。
重荷と目的は、左右のふりわけ荷物で、人生とは、重荷を背負った旅に似ている。
目的をもったら、貧窮にも、屈辱にも、どんなに迫害にも負けず生きられるかぎり生きて、目的にむかって、休みなく歩みつづけることだ。
たとえ困難でも、それ以外、人間としての生き方、人生という旅路をまっとうすることはできない。
人々は、核という毒素をふくんだ空気のなかで、呼吸困難に襲われるような不安、一寸先が見えない闇にひそむ断崖の恐怖に身を竦ませている。
そして、そのきびしい現実から逃れようと、英雄や革命家、救世主の出現をもとめ、日々の瑣末事、テレビの乱痴気騒ぎにわれを忘れようとする。
だが、それは、観念世界の出来事で、その背後に、静かでゆたかな生命世界が広がっている。
生命世界が見失われたのは、現実を直視するより、空想に遊ぶほうが容易いからである。
行動をおこすより、思い巡らせているほうが気楽だからである。
現実と空想、行動と思索、生命と観念――人類は、太古の昔からその前で迷い、いまも迷いつづけている。
迷える人間から絶対の世界はうまれない。
為政者は、その真理に知り、迷いをふっ切らなければならない。
わたしは、その意味で、亀井静香議員に多くを期待する。
亀井さんは、行動のひとで、障碍につきあたったら、その障碍をのりこえ、突き破ろうとする気迫、覚悟、粘り強さをもっている。
行動しつつ考え、体験しつつ知恵を得て、一時も休まずに前へすすんでゆこうとする健気さがある、弱者とともに涙する純情、驕れる強者にたたかいを挑む剛情がある。
何よりも、心がきれいで、澄み切っている。
わたしは、いま、日本に必要なのは、石原慎太郎都知事の傲慢さや橋下大阪市長の独善ではなく、亀井静香の行動力と信じます。
行動と思考、情が一体となった亀井静香は本物で、亀井を切って、石原都知事のカリスマ性、橋下市長の人気にあやかろうとして、右往左往している人々は、わたしの目から見ると「迷える人々」にすぎない。
日経新聞のコラム「春秋」に40年前の梅棹忠夫と司馬遼太郎のこんな対論が載っている。
梅棹「政治というもの力を縮小していって、完全な遊戯にまで追いこんでしまえばいい」
司馬「賛成ですね。やっている本人は血相を変えているけれども、人畜無害な遊戯にすぎないという形、それが理想の遊戯ですな」
言い得て妙で、政治は、本来、「政治なき政治」であらねばなりません。
政治は、政治なきを期すのが王道で、政治が要請されない社会こそ、健全な国家ということができるでしょう。
政治を必要とする社会、政治が大手をふる時代は、政治が未熟だからで、政治が十全に機能していない証拠です。
現在、政治が表にですぎるのも、政治が政治の態をなしていないからで、原因は、政治家が未熟で、迷ってばかりいるからです。
迷えるひとは、けっして、すぐれた政治家、力強い指導者になることができません。
絶対的なものをもたない者は、信念も覚悟も、情熱も度胸もなく、相対的な価値のなかで、方向を見失って、自滅してゆくばかりです。
小細工を弄し、足を引っ張り合い、大騒ぎをしているのが現在の政治で、本物の政治が死んでいるのです。
日本を、迷える人々に委ねてはならない、それがわたしの亀井待望論のもう一つの理由である。合掌。